ときどき神主ブログ - 歴史カテゴリのエントリ
4月25日付け久留米日日新聞さんに、櫛原の読み方について記事がありました。
櫛原天満宮は、今のところ、「くしはらてんまんぐう」と読んでいますが、もともと「天満神社」だったところに地名を付けるに当たり、「くしはら」と言っていた地名に合わせたのではないかと思います。
私が宮司になってすぐの頃、ある方が、「菅原は、”すがはら”でななくて”すがわら”でしょう。ここの地名も、本来は”くしわら”だと思う」というような事を仰っていて、なるほど、そうかも知れないなあと思っていました。
祝詞でも、「堅磐に常磐に」は「かきはにときはに」とふりを付けますが、声に出すときは「かきわにときわに」です。むしろ「は」を「わ」ではなく「は」と読む方が少ない気がします。
節原村というのは、以前、このブログで紹介しました。
櫛原町は久留米ではなかったことを実感 三井郡節原村役場の罫紙
沢山お参りに来ていただいて、「櫛原駅」が「櫛原天満宮前駅」とかになるといいなぁ・・・ 無理。笑
国立国会図書館デジタル化資料を見ていて、五穀神社のことが書かれていましたので、備忘録的に。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766613
コマ番号32に五穀神社の紹介があります。
「近時此に大神宮の神殿を浄建し境地を広め傍ら公園となさんとするの計画既に成り其工を起こす暁に至らば本市の東端更に一の名勝を加ゆといふべし」
廣瀬淡窓先生の漢詩も書かれています。
私には、残念ながら読めませんが。。。
ブログがお休み状態になっていました。
明日5月25日に、今年度の神社御世話人さんに集まっていただいて氏子祭(うじこさい)を斎行します。
その準備に追われておりました。
今朝は、総代さんと幟を上げました。
「可憐金鏡轉」
5月5日のブログ「今日のテレビ番組撮影は、あの有名タレントさんでした。」での撮影分がいよいよ放送されます。あ、ちなみにタレントさんとは、TOKIOの山口さんでした~。
Eテレ(教育テレビ)
火曜 午後10:25~10:50 再放送 翌週火曜 午前10:30~10:55
五穀神社での撮影は、おそらく第1回放送分だと思います。
6月7日午後10:25~10:50 再放送6月14日午前10:30~10:55 Eテレ(教育テレビ)
国立科学博物館理工学研究部科学技術史グループ長の鈴木一義先生が、お茶を運ぶからくり人形をTOKIOの山口達也さんに説明する場面です。
その撮影時、私はずっと横で息を潜めて見ていました。笑
NHK出版よりテキストが送られてきました。ありがとうございます。
五穀神社も掲載されています。私もフレームの中に収まった写真もありましたが、幸いにもボツのようです。苦笑
櫛原天満宮から歩いて4分ぐらいのところに、延命地蔵尊があります。
建立 享保3(1728)年
再建 明治12(1879)年
再々建 昭和53(1978)年
江戸中期、苦しむ農民の長寿延命と幼子の成長を祈って、寺町にある善福寺の瑞誉霊益上人が仏像を刻んでここに安置したのがはじまりだそうです。
伊勢にある皇學館大学で神職の資格を得たあと、最初にご奉仕(就職)したのが、東京都西東京市にご鎮座されている東伏見稲荷神社でした。およそ5年程お勤めさせていただきました。
東京には、あちこちに稲荷神社がありました。東京都内で稲荷の名称がつく神社は282社、境内社を含めると722社。ちなみに天満とつく神社は9社、境内社含めて32社です。
(東京都内 本社1413社、境内社1141社の中で)
さらに、一般のお宅でもお庭に稲荷さんが祀ってあったり、会社や工場、デパートの屋上なんかにもお稲荷さんのお宮があります。 初午の時期になると、某百貨店の社長室や各店の屋上の祭典奉仕をさせていただきました。ありがたい経験です。
さて、福岡を見てみましょう。
稲荷は53社、境内社含め227社。
天満は566社、境内社含め920社。
(福岡県内 本社3377社 境内社2080社)
東京ではあまりない天満宮が、福岡だと相当多いことがわかります。
お稲荷さんは五穀豊穣に霊験あらたかな神さまです。転じて、商売繁昌として、特に商売をなさっている方の信仰が篤いのです。
では、福岡の商売繁昌は、、、、?
えびすさんの信仰が多いようです。 神社数も多いですが、街のあちこちにえびす像をみることがあります。福岡の十日恵比須神社も有名です。
ところ変われば、、でしょうが、関西をみてみると、お稲荷さんの本宮は京都の伏見稲荷大社ですし、兵庫の西宮神社、大阪の今宮戎(えびす)神社なんかも有名です。
ある方より「ちょっと教えて欲しい」とお尋ね。櫛原天満宮境内の石碑等をご覧になっていたようで、果たしてどんなご質問かと思えば、「石橋山城守という方は、ここの神社の神主さんだったのでしょうか」とのこと。このブログで書いた「石は語る」で、神主の名としてありましたので、その文字を見ていただきました。
「やはり、そうですか」
お聞きすると、筑紫野市の眞野さんとおっしゃって、庚申塚について、長いこと調査研究をされているそうです。
神社ご社殿の南東にある庚申塚を、ずいぶん昔調査され、再び訪れたとのことでした。
その時、ご覧になっていたメモ。 クリックすると拡大します。
昔、庚申塚について調査された本があり、その写し書きだそうですが、何とその著者が、郷土史家の古賀壽(こが たもつ)先生。 昭和36年発行 『久留米市内の庚申塔・道祖神碑、石と民衆3』
今度、コピーを送って下さるそうです。
この庚申塚とほぼ同じものが大刀洗の高良玉垂神社にあるそうです。石工も同じではないか、浮羽の山北の石ではないかということです。そこまでわかるのですね、さすがです。
しかも、山北は私の本家の場所でありまして、何か感慨にひたってしまいました。
神社の南側、鳥居を出たところにも庚申塚がありまして、それも調査されました。
「う~ん、年号が記されていないなぁ」とのこと。
ただ、境内にある庚申塚より50年は新しいだろうとのことでした。
新しい説明板を立てられそうです。
学生時代、歴史が大の苦手だった私が神主さんしているのですから、困ったものです。
でも、自分が住んでいる町には興味が出てきました。年でしょうか。
それはともかく、昨日のブログで今の櫛原町、東櫛原町は久留米ではなかったということを書きましたが、ではどういう町並みだったかということで、この地図です。
クリックすると1240ピクセルまで大きくなります。
天保時代とあります。1830年から1843年までで、この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶です。天保8年には大塩平八郎の乱が起こっています。
明治神宮はなにやら大賑わいのようで。拝観料まで取るとはどういうことだと思ってしまいます。
とはいえ、ひとりの方から「パワースポットありますか?」
どこの神社は境内全部がパワースポットなのです。神社にお参りされた際には時間があれば、ぜひ境内の隅々まで行ってみてください。
櫛原天満宮で、あえてあげるなら、、、個人的な感覚ですが。
携帯で撮ってみた。
当宮の周辺には、今寺遺跡と石丸遺跡があります。今寺遺跡では、弥生時代前期から終末期に及ぶ集落や甕棺墓、鎌倉時代のお墓や室町時代の溝、石に一文字づつお経を書いて納めた江戸時代の穴などが見つかっています。
石丸遺跡は、今寺遺跡に住んでいた弥生時代の人々の墓地と見られる遺跡で、多数の甕棺墓が調査され、銅矛や管玉なども出土しています。
この大石は、甕棺墓の上に置かれていた石と伝えられていますが、古代における祭祀跡である磐座とも考えられます。
すぐとなりの桜の木にはサクランボが色づいてきました。
ゴールデンウィークの土日祝日は、ほぼ櫛原天満宮にいます。神主さんとお話ししてみたい方はぜひお越しください。私も暇ですから。
「東芝の創業者は、久留米出身なんですよ」
残念ながら、久留米でもあまり知られていません。
「からくり儀右衛門」と言えば、少し知っている人も。JR久留米駅前にあるからくり太鼓時計。儀右衛門が製作した「太鼓時計」をモチーフにしています。 その「からくり儀右衛門」こそ、東芝の創業者田中久重(たなかひさしげ)なのです。
田中久重が幼少の頃遊んでいたのが、五穀神社。
五穀神社のお祭りでみた「からくり人形」に強い興味をいだき、自らも創意工夫して「からくり」に力を注いだのです。
五穀神社と田中久重の結びつきが東芝を生んだと言っても過言ではないでしょう。
五穀神社がなければ「今の日本を代表する電機メーカー 東芝」はなかったかも知れません。
この事は、東芝のウェブサイト「東芝のルーツ、田中久重ものがたり」に詳しく記載されています。
ついでの話ですが、ブリヂストンの創業者石橋正二郎氏、三越百貨店の創業者日比翁助氏も久留米出身なのです。
五穀神社境内にある田中久重の像 |
神社の境内には文字が刻まれた石碑や石垣があります。
ご社殿手前の石垣です。
奉寄進通外町氏子中 明和四丁亥年四月下浣
發端 城戸氏 祠官 石橋山●守
奉寄進通町十町目中 石工 秦宇右衞門
お相撲さんの姿があります。
今はない、拝殿も。
この周りには、子供を含む沢山の参拝者がいるんだろうなぁと想像しています。
この賑やかさをいずれ取り戻したいです。
櫛原天満宮にある、石橋正二郎氏の寄付記念石碑です。
ご社殿の手前右、お守り授与所のすぐ横にあります。銀杏の木の下です。
石橋正二郎氏は、ブリヂストンの創業者です。
昔、高野のある農家に、たいそう孝行者の娘がいました。家は貧しかったのですが、父と娘の二人で楽しく暮らしていました。
ところが、そのころ、5年間もの間日照りが続き、毎年五月の五穀豊穣の祈願もききめがなく、村人も困り果てていたとき、たまたま六部が通りかかりました。六部とは全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修行している人です。六部は村人に頼まれて天をつかさどる神である天帝におうかがいをたてると、池の主が、巳年巳日生まれの15歳になる娘を人身御供(ひとみごくう)として求めていることがわかりました。
さっそく村人が集まって調べてみると、孝行娘がそうだとわかり、父親は泣く力もうせて、とぼとぼと家に向かいました。 帰りしな、ふと見ると、苗代田で鳥がタニシをつついています。農夫は鳥を追い払い、「おまえも親か子がいるだろう。鳥に食われたら家の者が泣こうものを」といたわって、タニシを逃がしてやりました。
いよいよ人身御供に行く晩、白装束に身を包み、村人に見送られた娘は、池の端で念仏を唱えていると、にわかに星空が真っ暗になり、大雨が降ってきて、娘はそのまま気を失ってしまいました。
翌朝、昨夜の雨は夢のように晴れ上がり、村人がおそるおそる池に行くと、驚いたことに、大きな池を二つ割るようにして大蛇が死んでおり、何千、何万というタニシが大蛇に吸いついていました。娘は無事に家に連れ戻されましたが、その後、この池をタニシが池と呼ぶようになり、大蛇の体があった所に土が積もって、池は二つに分かれたということです。
久留米市史-『郷土研究筑後』第三巻第七号
今日は、五穀神社のご祭神である「稲次因幡正誠公」の墓参りに行きました。
稲次因幡正誠公は、今の小郡市で亡くなり、霊鷲寺(りょうじゅうじ)に葬られました。
霊鷲寺の参道です。右にある看板に稲次因幡正誠公の功績が書かれています。
当ウェブサイトの参考にさせていただきました。
お寺はご創建700年で、本堂大改築が行われているとのことでした。
実に立派な本堂に感動しました。
稲次因幡正誠公顕彰の碑です。
現在お墓も整えている途中とのことで、残念ながら墓石はわかりませんでした。