ときどき神主ブログ - 庚申塚、古賀壽先生。
ある方より「ちょっと教えて欲しい」とお尋ね。櫛原天満宮境内の石碑等をご覧になっていたようで、果たしてどんなご質問かと思えば、「石橋山城守という方は、ここの神社の神主さんだったのでしょうか」とのこと。このブログで書いた「石は語る」で、神主の名としてありましたので、その文字を見ていただきました。
「やはり、そうですか」
お聞きすると、筑紫野市の眞野さんとおっしゃって、庚申塚について、長いこと調査研究をされているそうです。
神社ご社殿の南東にある庚申塚を、ずいぶん昔調査され、再び訪れたとのことでした。
その時、ご覧になっていたメモ。 クリックすると拡大します。
昔、庚申塚について調査された本があり、その写し書きだそうですが、何とその著者が、郷土史家の古賀壽(こが たもつ)先生。 昭和36年発行 『久留米市内の庚申塔・道祖神碑、石と民衆3』
今度、コピーを送って下さるそうです。
この庚申塚とほぼ同じものが大刀洗の高良玉垂神社にあるそうです。石工も同じではないか、浮羽の山北の石ではないかということです。そこまでわかるのですね、さすがです。
しかも、山北は私の本家の場所でありまして、何か感慨にひたってしまいました。
神社の南側、鳥居を出たところにも庚申塚がありまして、それも調査されました。
「う~ん、年号が記されていないなぁ」とのこと。
ただ、境内にある庚申塚より50年は新しいだろうとのことでした。
新しい説明板を立てられそうです。
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コメント一覧
庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。
とありますが、今からみると実にユニークな信仰だと思います。もちろん当時の人も、そういう表向きの理由で宴会を楽しんだのかもしれません。
どこの石とか、○○と同じ石とかわかるものなんですね。
郷土史はなかなか読むことはなかったのですが、実際あるものを目にすると、身近に感じて興味が湧きます。