ときどき神主ブログ - 「水の祭典久留米まつり」にとって変わられた伝統の祭りは その3
久留米の三大祭り。最後は五穀神社の「御繁昌」です。
御繁
この祭りは、前の祇園会・水天宮川祭りより新しく、明和元年(1764)以降に盛んになった祭礼である。
当社の建立については、神社および円通寺の建立に当たり、藩は五穀神社神殿を領内大庄屋中から、拝殿を惣郡中からの寄進を命じ、藩も社地や扶持米の寄附を行い、当初から藩営の形をとっていた。
しかし、創建当時は藩主の願いのとおりに参詣はなかったらしく、かえって円通寺近くにあった地蔵への参詣がにぎわい、藩主は五穀神社への信仰を強制するため、その地蔵を寺町遍照院に移し、町中から五穀神社への種々の寄進を命じ、これより、町中からの作り物の奉納が始まったと伝えている(「五穀神社記」『郷土研究筑後』)。これは、明和元年のことらしい。藩主の強制で始まった祭礼がしだいににぎわいを増すにつれて、「ごはんじょう」とこの祭礼を呼ぶようになった。安永6年(1777)の「頭陀日記久留米土産」(『久留米市誌』中)には、祭礼の様子が詳しい。
城下町片原町から通十町目までの町家の店先には、作り花などで飾られた掛行灯が立てられている。十丁目構口(かまえぐち)から御社内まで、左右に掛行燈・覆青傘、その上に作り物の大輪の牡丹が飾られ、五間間隔に紺地に五穀神広前と白く染め抜かれた幡が立てられている。また、近くには芝居小屋・見せ物小屋やのぞきからくりが立ち、大道芸人である居合・琵琶弾き・辻謡・辻浄瑠璃などが参道で芸を売っている。また参道には軒を並べて店が立ち、雑踏の中で人々は「ごはんじょう」という言葉の中で社参を行うという状況であった。
また、この祭礼には久留米町八掛から屋台を出していた。この作り物は、能・狂言の一場面をつくったものであるが、文政2年(1819)以降の作り物はほとんどからくり人形であった。これらは田中久重の考案したものとも言われているが、同時に「作り物はやし歌」がそれぞれに作成され、三味線にのせて歌われた。天保3年(1832)には、境内に能舞台・見世物見物所や門前に茶屋などが作られ、祭礼は最盛期を迎えている。しかし、天保10年(1839)に、この能舞台などが解体されるにつれて御繁昌もしだいに衰えていったようである。
この祭りは、前の祇園会・水天宮川祭りより新しく、明和元年(1764)以降に盛んになった祭礼である。
当社の建立については、神社および円通寺の建立に当たり、藩は五穀神社神殿を領内大庄屋中から、拝殿を惣郡中からの寄進を命じ、藩も社地や扶持米の寄附を行い、当初から藩営の形をとっていた。
しかし、創建当時は藩主の願いのとおりに参詣はなかったらしく、かえって円通寺近くにあった地蔵への参詣がにぎわい、藩主は五穀神社への信仰を強制するため、その地蔵を寺町遍照院に移し、町中から五穀神社への種々の寄進を命じ、これより、町中からの作り物の奉納が始まったと伝えている(「五穀神社記」『郷土研究筑後』)。これは、明和元年のことらしい。藩主の強制で始まった祭礼がしだいににぎわいを増すにつれて、「ごはんじょう」とこの祭礼を呼ぶようになった。安永6年(1777)の「頭陀日記久留米土産」(『久留米市誌』中)には、祭礼の様子が詳しい。
城下町片原町から通十町目までの町家の店先には、作り花などで飾られた掛行灯が立てられている。十丁目構口(かまえぐち)から御社内まで、左右に掛行燈・覆青傘、その上に作り物の大輪の牡丹が飾られ、五間間隔に紺地に五穀神広前と白く染め抜かれた幡が立てられている。また、近くには芝居小屋・見せ物小屋やのぞきからくりが立ち、大道芸人である居合・琵琶弾き・辻謡・辻浄瑠璃などが参道で芸を売っている。また参道には軒を並べて店が立ち、雑踏の中で人々は「ごはんじょう」という言葉の中で社参を行うという状況であった。
また、この祭礼には久留米町八掛から屋台を出していた。この作り物は、能・狂言の一場面をつくったものであるが、文政2年(1819)以降の作り物はほとんどからくり人形であった。これらは田中久重の考案したものとも言われているが、同時に「作り物はやし歌」がそれぞれに作成され、三味線にのせて歌われた。天保3年(1832)には、境内に能舞台・見世物見物所や門前に茶屋などが作られ、祭礼は最盛期を迎えている。しかし、天保10年(1839)に、この能舞台などが解体されるにつれて御繁昌もしだいに衰えていったようである。
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