新しいホームページ

ときどき神主ブログ - 20090807のエントリ

その1」に引き続き、次は水天宮の川祭りについてです。

 

 

 水天宮の川祭り

 水天宮は元来、筑後川の水神を祭り、文政期ごろまで尼御前社と言っていた。祭神は尼御前大明神・右に安坊大明神・左に荒五郎大明神であり、もとの社地は現在梅林寺がある小山であったが、数回遷地のあと慶安3年(1650)藩主忠頼から社地を賜って現在地に定まった(『社方開基』)

 この神社の重要な祭礼は、12月15日に行われていたが、白米と魚を梅林寺のふもとにあった池に納め水神を祭るものであった。この神事は、現在、宮ノ陣町八丁島天満宮で行われている「御供納(ごくおさめ)」と同様のもので、筑後川中流域での共通した水神祭のようである。

 しかし、この祭礼が川祭りとして装いを変えるのは、寛文12年(1672)からのようである(『米府年表』)。この年、瀬下町を中心とする氏子たちによって、祭礼が始まっている(『石原家記』)。瀬下が川港として久留米藩の物資の集積・移出地としての地位が確立するにつれて、水天宮の祭礼の性格も変化していった。元来、瀬下港は君津港(右馬丞)と一体化して機能を果たす川港で、領外から久留米城下に入る物資は、若津港で川船に積み替えて瀬下へ運び込まれ、逆に領内物資は瀬下に集めて若津港に送られ、海船で諸方に運ばれた。つまり、水天宮は、水神信仰とともにやがて航海神(海上交通の守護神)へと性格を強めていったらしい。藩水軍の息災と藩米大坂回送の安全祈祷などによる、藩からの強い保護ももちろんであった。

 寛延2年(1749)、尼御前社へ若津に出入りする大坂借船船頭中から御神輿が寄附され(『石原家記』)ており、翌3年には、尼御前の御神幸が右馬丞まで行くようになっている(『同前』)。その状況を、安永六年(1777)に著述された『筑後志』に「毎歳四月五日川祭あり。又十一月十五日、祭礼を行い、御輿を船に遷して、州内榎津(現大川市)に到る。海舶の水客等群衆して、幣物を捧げ海上の安寧を祈る」と記している。

 水天宮が筑後川流域に分霊されるのは、ほとんど幕末以降のことである(『筑後川農業水利誌』)が、幕末の水天宮の4月の祭礼の様子を具体的に示すものとして、家老有馬監物へ足軽目付が提出した次の視察報告がある。

 昨五日瀬下尼御前祭礼に付き、私共打ち廻りの為、罷り出申
 し候処、御家中家族衆並びに御扶持人類、町方在方旦隣国よ
 り参詣人多く、社役例年の通り、滞りなく相済み申し候。
 旦、浜筋に於て同町利平と申す者は謡仕り、通掛物真似壱ヶ
 所、同町又八と申す者通掛手妻壱ヶ所差出し、何れも、もき
 せんにて見物致させ申し侯。其の外、覗目鏡壱ヶ所出、堀内
 浜町筋より茶接待壱ヶ所、御堂物店・菓子店等数ヶ所差出し
 賑い申し候え共、口論ヶ間敷儀も御座なく、何ぞ相変り候義
 も見開き仕らず候。旦又、例の通り、諸御役方より出役仕り
 申し候。此の段申し上げ奉り候。
 

 

続く…






















検索
ご連絡

TEL:0942-80-8000
FAX:0942-80-8009

ネットでの申し込み

テーマ選択
screenshot

(1 テーマ)

ブログ カレンダー
« « 2009 8月 » »
26 27 28 29 30 31 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 1 2 3 4 5
カテゴリ一覧