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ときどき神主ブログ - 「水の祭典久留米まつり」にとって変わられた伝統の祭りは その1

「水の祭典久留米まつり」にとって変わられた伝統の祭りは その1

カテゴリ : 
祭典
執筆 : 
office 2009/8/4 15:26

昭和47年に始まった「水の祭典久留米まつり」は、今年で第38回です。

水の祭典久留米まつり Official Site
http://kurume-matsuri.info/


会長挨拶に<新しい伝統を創りつつあるこの祭典に、さらに筑後広域の人々の参加によって、市民主役のお祭りを構築したいと願っています。 >とあります。


でも、実は、久留米にも伝統ある立派なお祭りがあったのです。
それはちゃんと神様がメインのお祭りでした。


以下、『久留米市史』の「久留米町の祭礼」を掲載します。


 

久留米城下町の祭礼

 久留米は伝統的な祭礼や芸能が少ないところと言われるが、江戸時代に関しては事実とは言いがたい。久留米城下町にも、博多の山笠と同様の町人による華麗で活気あふれる祭礼が行われていた。
久留米の三大祭礼として、久留米城内祇園小路(現篠山町)の祇園社の祇園会、瀬下の水天宮(尼御前社)の川祭り、通外町の五穀神社の御繁昌がある。いずれも、幕末弘化の大倹令から明治の排仏棄釈(神仏分離)によって往時の華麗さを失ってはいたが、戦前まで続いていた。しかし、今ではわずかに水天宮にその名残を見るだけと言えよう。もちろん、ほかにもさまざまな祭礼は行われていたが、ここでは、右三者を取り上げて見てみたい。

 祇園会

 祇園会は篠山町に鎮座する素佐能盞神社(もと祇園社)の夏祭りである。同社の祭神は、山城国愛宕郡(現京都府)の八坂神社の祇園牛王天王である。社伝によれば、貞観17年(875)、真言宗法印真応が久留米の守護神として勧請したもので、祭礼は特別の事情がないかぎり、毎年6月7日から14日まで行われた。

 祇園会は、貞観11年(869)、全国に疫病が流行したときに、国数に応じた六六本の鉾を立て、悪疫退散の祭礼を行ったのが最初と言われ、それが徐々に悪疫退散のための夏越しの祭礼へと変化していったもの である。しかし、久留米の祇園会の挙行が、どの時代までさかのぼるかは不明である。天文3年(1534)に祭礼があったことは伝えられているが、祭礼が本格的になるのは、正保四年(1647)2代藩主忠頼のときである。

 同年、久留米町中氏子の願い出により、忠頼は十間屋敷(日吉町)に御旅所の地を寄附し、神幸が再興された。このとき、町中氏子は通物を作り神輿を導いたと言われ、忠頼は町奉行に命じ、神輿の警固のため長柄鎗20本、足軽15人をつけ(『社方開基』)、祭礼の復興に努めている。祭礼は万治2年(1659)に、「例年の通り、通し物以下儀式仕り候義なり難」き状況に陥ったこともあったらしいが、現在、確認できるところでは、天保15年(1844)まで盛大な祇園会が続いている。

 ところで、元禄7年(1694)には、「今年祇園会再興」(『米府年表』)という記事が見られるが、同年には「祇園山始まる」(『石原家記』)ともあり、この年から藩主が使者屋で神事を観覧することになったこと、通し物以下が整備されたことなど、祇園会の歴史上、一つの画期となり、再興と記録に残されたのであろう。

 通し物とは、『石原家記』の正保4年の記事によれば、「笠鉾、町中八掛より出」すとあり、また「屋台俗これを挽山と云、或は笠鉾あり、都て通し物と称す」(『筑後志』)とある。現在、京都の祇園会で見られる挽山で、その上に笠鉾を立て、屋台の上には能・狂言にみえる故事を趣向にした作り物が作られ、それを「山」と総称したようである。第137表のように、瀬下町(山崎屋掛)の山は「船山」・「御座船」・「笠鉾」などが記録に残されている。文化年間のものと推定される「祇園会神幸祭礼絵巻」には、船に車をつけ、船尾に笠鉾を立てた山があり、船頭姿の人々によって挽かれている姿が描かれている。

 毎年の祭礼の運営は、久留米町八掛の町別当を中心に行われたが、各掛は各一台の山(挽山)を整えて祭礼に参加したようである。経費は町の小間掛で徴収され、祭礼の二か月前から準備が始められた(『石原家記』)。

 御神幸は、天保年代には大手前の広場に各山がそろい、狩塚門から順次城内に引き入れ、祇園社の門前の道に並立し、その後順次繰り出し、大手に出て、行幸は長町(通町)を通って御旅所へ至り、七日後の遷幸は新町通りであった。宝永3年(1706)に、両替町御門前で渡屋掛の船鉾と田鍋屋掛の山が競りかかり、両者の間で口論の末、田鍋屋掛の者が刃傷を負う事件が起こっている(『石原家記』)が、各掛は競い合って山を作り、町の威信をかけて祭礼に参加していたようである。寛保元年(1741)には、渡屋掛は御座船に松の内の作り物をこしらえ、子供らは綱引踊りで参加したが、衣裳はそろいの立水模様のものであった。布屋掛は松坂節による大踊りで、踊り子は緋縮面羽織・晒帷子のそろいの衣裳で、美しくぜいたくを尽くしたものである。また、宝暦年間には御旅所で芝居興行が行われ、祇園会の祭礼は久留米町全体を祭り一色に塗りつぶしたようである。いずれにしても、この祭礼のにぎわいは、町人の経済的繁栄を前提にしたものであった。

この祇園祭、実はまだ細々とながらしっかり続けられているのです。 「その2」へ続く…
 

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