織田信長、豊臣秀吉の両氏共、戦国時代以来窮乏した社寺を保護しました。 しかし信長の延暦寺焼き討ち(日吉神社も焼かれた)に見られるように、両氏とも兵力を持って政治干渉する社寺に対しては容赦なく弾圧しました。 また柴田勝家は秋田地方の社寺に刀狩を命じています。 一方信長は伊勢神宮の造営費を寄進してもいます。 社寺への信仰と社寺の政治干渉の排除は、この時期以降の武家政治の特徴のようです。 信長は検地を行いましたが、秀吉も天下統一後直ちに、信長より厳しく検地(大閤検地)を行いました。 いかなる社寺領も全て検地竿入れ(さおいれ)し、領地没収の上、朱印状による石高(こくだか)をもって、これを全国の社寺に寄進しました。 短い時代ですが、両氏の確立した集中的封建体制は、社寺政策においても、次の徳川幕府の基礎となっています。