【ご鎮座地】
福岡県久留米市通外町58 地図はこちら
お車の場合 … 国道3号線西鉄久留米交差点(東町交差点)を東へ。五穀神社信号鳥居入る。
電車の場合 … JR久留米駅・西鉄久留米駅 バスにて「五穀神社前」下車。
西鉄電車櫛原駅または西鉄久留米駅から歩いても、1バス停区間程度です。
■大砲ラーメン本店横、福岡県青少年科学館がある中央公園奥です。

 【ご創建】
寛延2年5月23日 西暦1749年

 【ご祭神】
豊宇気比売神 (とようけひめのかみ)
わが国の総氏神さまとされる伊勢の神宮(外宮)のご分霊とされ、五穀豊穣、商売繁昌をはじめ、私たちの生活全般をお守り下さる神さまです。
稲次因幡正誠公 (いなつぐいなばまさざねこう) 相殿に祀る
享保13年(1728)8月、生葉、竹野、山本の三郡の農民は、藩の重税に耐えられず、減税運動の一気を起こしました。総勢5,700余名が武器を持って善導寺に集まり、御井町まで押し寄せました。
27才の若い家老の稲次因幡正誠は、一揆を起こした首謀者とひとりで会いに行き、「農民の要求に応じる、以前の税は1割1歩減税、首謀者の処刑はしない」という約束をして農民の苦しみを救いました。
農民は喜びましたが、家老仲間の不満、藩の殿様の怒りが後年藩主お世継ぎ問題とからんで、享保19年(1734)、御原郡津古村(小郡市)の庄屋斉田氏宅に幽閉させられました。三千石の家老職を失い、享保21年(1736)悲運のうちに亡くなりました。34才でした。
罪ある身であったため、城下町に帰ることなく、小郡市の霊鷲寺(りょうじゅうじ)に葬られました。
そして彼の死後12年目、寛延2年(1749)、稲次因幡正誠公の人徳をなつかしく思い慕う農民が、五穀神社ご創建にあたり、農業の神様としてお祀りました。

 【歴史】 

久留米市誌より
久留米藩主有馬頼徸(よりゆき)公は、現市内通外町に五穀豊穣を祈るため、印度の農耕神婆珊婆演底主夜神を祭って五穀神社を創建した。これは江戸の神田山幡随意院新知恩寺の礼誉上人の勧めによるもので、神宮寺として、江戸初期まで現御井町矢取付近にあった廃寺円通寺(真言宗)を境内に復興した。頼ゆきの命を受けて寺社の造営に当ったのは、旧円通寺住職快辯の四世の法嗣快厳であった。同時の本尊は阿弥陀如来であったが火災にあい、安永年間更に頼ゆきは大悲堂を営造し、八女山中に産する銘木光遠木を用いて如意輪観音を彫刻させ安置した。

 【主な祭典】  

 

1月1日  歳旦祭
2月15日 おかゆ炊き祭
3月15日 おかゆ祭
4月25日 天満宮春祭
7月21日 夏祭
10月15日 例祭
11月18日 秋葉祭


 【境内にある神社(末社)】
天満神社 ご祭神 菅原道真公
秋葉神社 ご祭神 味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)

 【周辺地図】

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五穀神社と東芝

 

「東芝の創業者は、久留米出身なんですよ」
残念ながら、久留米でもあまり知られていません。

「からくり儀右衛門」と言えば、少し知っている人も。JR久留米駅前にあるからくり太鼓時計。儀右衛門が製作した「太鼓時計」をモチーフにしています。 その「からくり儀右衛門」こそ、東芝の創業者田中久重(たなかひさしげ)なのです。

田中久重が幼少の頃遊んでいたのが、五穀神社。
五穀神社のお祭りでみた「からくり人形」に強い興味をいだき、自らも創意工夫して「からくり」に力を注いだのです。

五穀神社と田中久重の結びつきが東芝を生んだと言っても過言ではないでしょう。
五穀神社がなければ「今の日本を代表する電機メーカー 東芝」はなかったかも知れません。

この事は、東芝のウェブサイト「東芝のルーツ、田中久重ものがたり」に詳しく記載されています。

ついでの話ですが、ブリヂストンの創業者石橋正二郎氏、三越百貨店の創業者日比翁助氏も久留米出身なのです。

 

 

五穀神社境内にある田中久重の像

 


 

東芝ウェブサイト 田中久重ものがたり
東芝のウェブサイト


神社入り口にある説明看板